「景姫」(寵愛 編)

 景麒の朝は早い。疲労の残る身体を起こして過剰な装飾が施されている鏡台の前に立つと、景麒は丁寧に自身の長い鬣を梳り始めた。昨夜陽子に遊ばれた為、長くて量の多い金髪がくしゃくしゃになっている。鬣の端には、陽子に結ばれた色とりどりの飾り紐がいくつも絡み合っていた。根気よくほぐし身支度を整え、私は麒なのだと自分自身に必死に言い聞かせる。陽子の頭の中では、『囚われの姫』という設定になっているらしいのだが、(しかも日によってその設定はころころと変わる)それも今の景麒にはかえって好都合だった。後宮で寝起きしているという事実と、実際に生活している姿を女官に見られるよりは遥かにいい。
 深く深呼吸をし精神を安定させてから、景麒は使令達に命じて後宮近辺を丹念に調べさせる。
「班渠、主上の御様子は?」
「まだ御休みになられています」
 遊び疲れた陽子は正寝で熟睡中らしい。明け方正寝にお戻りになる時仰った、『通い婚みたいで面白いよね。一度やってみたかったんだ』という主上のお言葉が忘れられない。複雑である。
 ともかく、いまなら内宮も閑散としている。後宮からの脱出は今しかない。こうした出来る限りの自衛策を取った後、頼れるのは自らの獣としての本能のみである。景麒は獣特有の嗅覚と触覚、感じ取れる全ての気配に気を配りながら、そろそろと忍び足で後宮を後にした。どうやら今日も、女官達の目から逃れることができたようだった。

 朝議は滞りなく終了した。女王が自国の麒麟に与えた個性的な字にも、官達はすっかり慣れたようである。さすが陽子の治める国だけあって、民の順応力は高い。
 女官達の焼け付くような鋭い視線を背に受けながら陽子の元へ向かうと、珍しく女物の美しい衣を観賞しているところだった。これは良い兆候かもしれない。なにしろ気紛れな女王である、ふとしたきっかけで興味や戯れの矛先がくるくると変わるのだ。
「丁度いいところに来たな、景姫。この薄紅色の衣とこっちの新緑色の衣、どっちがいいと思う?」
 相変わらず自分の字は景姫のままだが、良い兆候だ。淡い期待を抱きながら穏やかな笑みを浮かべている陽子に手招きされるまま近づくと、景麒に向けられている女官達の視線が更に険しくなった。
「主上には、この淡い紅色の衣がお似合いです」
 陽子の深い緑の瞳によく映えることだろう。景麒にしては気の利いた返答を返すと、陽子の微笑みが濃くなった。
「いや、違うよ。これは景姫のだよ。ここ数日急に冷え込んだろう? その黒い衣だけじゃ政務中も寒いだろうと思って、景姫の為に私が選んだんだよ」
 景姫はこの色が好きなのかな? 愛らしく小首を傾げてみせながら、陽子はそっと薄紅色の衣を景麒の肩に羽織らせた。どこからともなくぎりぎりと嫉妬に塗れた歯軋りが聞こえてくる。硬直したままの景麒はされるがままだった。
「やっぱり可愛い」
 陽子の声色はあくまで優しく、目を閉じてさえいれば幸せな状況だった。
 字だけでなく衣まで賜り、主上に慈しまれているなんて。女官達の悔しそうな心の叫びを、景麒は確かに聞いた。
 しかし、問題にすべき点はそこだけなのだろうか? もっと他に、根本的かつ無視しがたい問題が山のようにあるのではないだろうか? 例えば、麒に女物の煌びやかな衣を贈る点についてだとか。景麒が期待していた慶の女官達の反応は、間違っても嫉妬ではない。本来なら同じ女性同士、ここで王を上手くお諌めすべきなのだ。ここは麒麟に嫉妬する場面では断じてないはずだ。
 心の中で激しい葛藤を繰り広げていた景麒がはっと我に返ると、騒ぎを聞きつけたのか主従の周りには人だかりができていた。
「台輔は主上に大切にされておいでですのね」
 好意的な女官も若干いるにはいるが、景麒の期待する反応ではない。目を向けて欲しいのはそこではない。
「いくら台輔とはいえ、寵の偏りは国を乱しますわ」
 景麒には理解しがたい嫉妬を示すものが大半だった。

「主上。お気持ちは嬉しいのですが、この衣は、その……私より主上の方がお似合いです」
「そんなことないよ。景姫にすごく似合ってる。心配するな」
 遠回しに訴えてみたところで通じる相手ではないことくらい、景麒にも分かっているのだが。
 景麒が必死に危機を回避すべく奮闘している間にも、女官達の嫉妬と非難混じりの囁き声が景麒をじわりじわりと取り囲んでいく。
――主上の御寵愛を無下になさるとは、台輔は強気でいらっしゃるのね。
――主上の深い御寵愛を受けている台輔にとっては、私達女官など取るに足りない存在なのかしら。
――お優しい主上の心遣いを退けるなんて、本当に仁の獣でいらっしゃるのかしらね。
 陽子には聞こえていないのか、それとも分かっていてやっているのか、無邪気に景麒の顔を覗きこんでいる。
 景麒は逃げ道を探してみたが、前方には愛すべき主、後方には嫉妬で目をぎらつかせている女官達、左右は同じく嫉妬で胸を焦がしている女官達に囲まれている。景麒の白い頬がみるみるうちに蒼ざめていく。

 王の執務室の前に、女官達が群がっている。冢宰が近づくと、彼女達ははっと居住まいを正し、さっと四方に散っていった。心持ち緊張した面持ちで入室した冢宰に、女王はこうのたまった。
「聞いてくれ浩瀚。酷いんだ」
「それは台輔がお悪い」
 即答する浩瀚に、陽子はそうだろうそうだろうと満足そうに頷いている。
「ほらみろ景姫、冢宰もこういっている。やっぱり問題はお前にある」
 酷いのは誰でどんな事情なのか一切聞かず断言するとは、さすが冢宰である。とりあえず王の味方をしておけば被害は自分まで及ばないだろうという、景麒にとっては不幸極まりない対処法を冢宰は取っていた。賢明な判断ではある。景麒は人事のようにぼんやり思う。せめて事情を聞く振りくらいはしてほしいものだが。女物の衣を羽織っている自国の麒の姿に何か言うことはないのだろうかと思ったが、浩瀚はその件について発言するつもりはないらしい。簡潔に、しかし王に対する礼を尽くして奏上すると、静かに退出していった。陽子はせっせと景麒の鬣を梳り、今朝景麒が苦労して解いた髪飾りを再び鬣に付けている。

 誰か、他に頼りになる者はいないものだろうか。亀の甲より年の功、恥を忍んで大国雁に助言を求めるべきだろうか? 景麒は延主従に助言を仰ぐことにより起こる、利点と問題点をじっくり吟味してみた。
 問題点其の一、まずは景麒の字と後宮の件、それから女装束について彼らに教えない訳にはいかない。ここぞとばかりに大笑いされるだろう。これは仕方が無い。あの主従に笑うなと要求する方が無理だ。これから先少なく見積もっても百年は笑い者にされる。
 問題点其の二、およそ九割の確率で、事態が悪化する可能性がある。慶の王宮内に知れ渡ってしまうばかりか、雁以外の国にまで噂が流れる恐れがある。それはかなり苦しい。
 問題点其の三、仮に上手くいったとしても、後で何を要求されるか分からない。後宮、女装、それらが些細なことのように思えるような恐ろしい事態も起こり得る。
――やはり止めよう。わざわざ荊の道を行くこともあるまい。景麒は賢い判断を下した。

 冢宰も当てにならず、他国に助言を請うことも躊躇われるとなると、後は……左将軍はどうだろう? 主上の悪ふざけに付き合いかねない女御らよりは頼りになりそうだ。陽子のお気に入りの家臣の一人である半獣の将軍の言葉ならあるいは……いやいや、駄目だ。半獣とみれば抱きつかずにはいられない主上のことだ、これをきっかけに主上と左将軍の親密さが増してしまったらどうする。主上の御友人である楽俊殿も、同じ理由により却下せざるを得ない。麒麟で遊ぶことに関する興味は薄れるかもしれないが、その代わり他の者へ寵が移ってしまったら……そうなるくらいなら、主上のお戯れに最後まで付き合う方がいい。自分以外の者が後宮に入内するくらいならいっそこのまま……景麒は、苦悩と嫉妬と麒麟らしい素直なお間抜けさの狭間で揺れ動いていた。
 気に入った相手を後宮に入れ戯れるという遊びをこの先も陽子が続けるとは限らないのだが、陽子の愛情表現とはすなわち入内であると頭に叩き込まれてしまった景麒だった。

「よし、綺麗に着付けられた」
 しまった、こうして悩みぬいている間も陽子の戯れは進行中だったのだ。景麒に女装束を着せ、鬣に飾りまで付けて、女王はご満悦である。着慣れない煌びやかな衣に気を取られている景麒に陽子はちらりと目を遣った。
「着心地が悪いのは分かる。私だって女物の衣は苦手だ。でも平気だよ、そんなに長い間着る訳じゃないんだから」
「で、では、もう衣を替えても?」
 意外な女王の言葉に、景麒は半信半疑で聞き返した。着心地だとか、そういった類の問題ではないのだが、この際それは後回しだ。
「うーんとね、着替えるというか……やっぱり王様としては、着せるより景姫を脱がせる過程の方が好きなんだよね。そっちの方が楽しいに決まっている」
 女王陽子はあっけらかんとのたまった。
 それでこそ主上だと心の片隅で感心しながら、景麒は力の抜けた身体を長椅子に預ける。美しい衣の裾がふわりと床に落ち、絹に焚き染められた春の香が辺りに広がった。

 開き直ってこの状況を喜ぶべきか、断固として寵姫扱いは拒否すべきか、そろそろ本気で選んだ方がいいだろうかと、景麒は一瞬遠くなりかけた意識の中考える。
 景麒は想像してみた。
 主上に景姫と呼ばれ、素直に応える自分、花のように艶やかに微笑んで下さる主上、ほっそりとした主上の褐色の指がなまめかしく動き、美しい女装束を羽織らせてくれる。優しい指先は景麒の白い頬をそっとくすぐり、主上御自ら丁寧に鬣を梳かして下さる。耳元でまた優しく景麒の字を囁き、今度は先ほど着せて頂いたばかりの色鮮やかな衣がやや乱暴に、しかし官能的に剥ぎ取られる。陽子の微笑が一層深くなり、二人を隔てるものはもはや絹一つない。
 それから、春になったら後宮の庭院で暖かい日差しと瑞々しい草の香りを主上と楽しむのだ。『景麒』では絶対にできないようなこと、例えば美しい衣をまとって主上の柔らかくて心地よい膝に甘えてみたり、主上のすべすべした手に唇を寄せてみたり、そんな幸せな時間を景姫として過ごす……

 ……今まで目先の災難に注意を奪われていて気付かなかったが、これは勿体ないほど幸せな状況ではないか。今まではどこをどう取っても女の字であることや、健康のためという理由で半強制的に入れられた後宮のこと、女装束のことで反発してきたが、よくよく考えればこれは、偏見さえなくせば信じられないような幸福ではないのか。
 今までの自分の日常の中で、これほど陽子が優しく接してくれたことがあっただろうか? 景麒の身体を気遣い優しく字を呼び、寒くはないかと衣を羽織らせて下さる。たとえそれが女装束であっても、これほどお優しい主上をいまだかつてみたことがあっただろうか。そういえば最近は無断で下界に降りることもない。今までの『こみゅにけーしょん』といえばせいぜい景麒の肩や背中を勢いよく叩いたり、夕餉の際に御自分がお嫌いな野菜を下さる(というより無理矢理景麒の膳に移す)程度だった。だが今は、優しく景麒の鬣を撫で、好物のはずの甘栗の煮付けを主上御自らの手で食べさせて下さる。
 仮に、今まで通りの麒としての面白みのない生活に戻ったところで何になる? 主上にうるさがられたり、邪険にされたり……景麒を置いて親しい女御らと遊びにいってしまわれるだけではないか。あくまで生真面目に麒として接するより、この際景姫として主上に可愛がって頂いた方が良いのではないだろうか。

 これらのことを景麒は熟考し、考えを改めた。
 やはり、自分は幸福だ。王である陽子の寵愛を勿体ないくらい受けている。女官達があれほどまでに嫉妬するのも無理は無い。主上の寵姫は私だけだ。景麒は、ほんの少し優越感に浸ってみた。
 陽子のふっくらした唇が降りてきた時、景麒はこれまでとはうって変わったうっとりした表情でそれを受け入れていた。
「いい子だね、景姫」
 嬉しさに、景麒は能面のような顔をほころばせる。
 一度退出したはずの女官達、それから陽子に近しい者達が扉の隙間からそっと垣間見ていたが、気付いたのは景麒の使令だけだった。使令達は主である麒麟に必死に呼びかけるが、目の前の陽子に夢中の景麒は全く気付くことはなかった。

06/02/10
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めでたしめでたし……?書いててとっても楽しかったです。これで他国の麒麟から字を聞かれても自信たっぷりに答えられる……はず。途中までは真面目に悩んでたはずなんですが、悩み方が段々とずれてきてどこかで何かを間違えてる気がちょっぴりします。素直な思考回路がお馬鹿さんで可愛い麒麟だと思います(妄想内)それでいいのかと思いつつ何だか一件落着してしまったような感じに……後でふと我に返ってみたり?

下のような意味合いの文章を付け加えようかなと思ったのですが、景姫が可哀想なので止めました。
「景麒は忘れていた。陽子は最初から、『自分が飽きるまで遊ぶ』と言っているのだ。しかし現時点ではひとまず、幸せな景麒だった」
色々やってるうちに陽子も景麒が可愛くなっちゃって、やっぱり末永く可愛がろう、という愛されてる景麒というのも捨て難いので!

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