「抱擁(前編)」



「不満があるのなら言ってみろ」
 久しく聞かなかった言葉に景麒は思わず目を逸らした。
 不満などございません、囁くような弁解は、陽子の目には大層白々しく映った。怒気をはらんだ主の言葉は不器用な麒麟の口を更に重する。
 嘘を吐いているわけではなかった、彼はいつでも唯一無二の主に忠実に仕えていた、ただ一つだけどうしても、口に出せないことがあるだけだった。それが彼の心をきりきりと締め付けて、可哀想なくらい孤独にさせていた。
 ずっと昔のことだ、名前も知らない、ただ一度会っただけの官吏が景麒を見て『可哀想な御方』だと言ったことを思い出した。なぜ今この瞬間それが頭に浮かんだのか分からない、あの時は無礼なと思うこともどういう意味だと問うこともできないまま終わった、この先会うことは二度とないかもしれないが、もう一度あの意味を景麒は問いただしてみたかった。

 陽子もまた同じように、心のどこかで孤独を抱えていた。
 気心の知れた者と笑っている時も、近臣と熱のこもった議論をしている時も、さらさらした絹の感触が心地よい牀榻に潜り込み両目をぎゅっと瞑って夢の中だけでも私を癒してくれと願っている時も、身分を隠して民と語りあっている時も、懐かしい蓬莱の歌を歌っている時も、どういうわけか彼女にふと自分の孤独を思い起こさせるのだ。何千何百もの臣下に囲まれていても、彼女が独りであることに変わりはない。
 だがまったく救いがないわけではなかった、例えば彼女の麒麟がそうだった。景麒は少しだけ陽子の不安を和らげてくれていた。自分はきっとこの麒麟が好きなんだろうと陽子は思っていたが、その理由はとても純粋でありながら少しだけ不純だった。
 涙もでないほど孤独であった陽子には、とにもかくにも愛情を注ぐ対象が必要だったのだ。これが最初のきっかけで、ほんの少しだけはじまりが不純であったのはこのためだ。民という捕らえどころのないものだけでなく、すぐ傍らにいる何か、苦しみと喜びを伴いながら直に愛情を注ぐことのできる何か、彼女に無償の愛を注いでくれる誰かがほしかったのだ。そういった意味での対象の一つである親はここにはいなかった、もちろん兄弟姉妹もいないし、子を作ることもできない。自然と陽子の無邪気で貪欲な愛情の対象は傍らの麒麟へと向かっていった。陽子はそもそものはじめから、王としてではなく彼女個人の愛情を持って麒麟を見ていた。
 だから、ある意味では陽子の親であり兄であり、子でもある大切な麒麟が彼女からふいと目を逸らしたまま本心を一つも語ってくれないのを見るのは哀しかった。
 下がれと命じるため陽子は口を開きかけたが、その瞬間絶望的な孤独感が彼女を襲い、その言葉を押しとどめた。たった独りで巧を彷徨っていた時ですら、こんな思いを味わったことはなかった。血と泥と草の臭いがやけに鮮明に残っていて、それが時折陽子を苦い思い出へと誘う。そんな時陽子が見せる背筋がぞくりとするような虚ろな笑みは景麒をとても不安にさせることがあるのだが、陽子には分からなかった。なぜ景麒が哀しそうな顔をするのか分からなかったし、なぜ自分に隠し事をするのかも分からなかった。
 麒麟は陽子にとってあまりに謎に満ちていて、何の共通点もないように思われた。
 気に入らないこともたくさんあった。麒麟だからなのか、それとももともとそういう気質なのか、景麒は花が散ったといっては嘆き、雨が降り止まないといっては憂鬱になり、陽子が無断で街へ下りると母親とはぐれた幼子のような必死さで彼女を探し回った。
 もっとしとやかにしろといいたいのか、陽子に琵琶だの笛だのを暇さえあれば教えたがるのも気に入らなかった。優雅な音色を奏でてみせては、彼女にその美しさを分からせようとした。でも陽子はそんな優雅でお上品で贅沢なものは全然好きではなかった。そんなものは水禺刀で叩き壊して、命があろうがなかろうが全てはみんな儚いんだよ景麒、と言ってやりたかった。とても詩的だろう、景麒が言いたいのはつまりはこういうことなんじゃないのかと。


05/01/08

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