「レモン味?〜景麒編」
景麒は真剣に考え込んでいた。 先日偶然主上と女御が何やら笑いながら話している現場に遭遇してしまったからである。咄嗟に身を隠し主の様子を伺うと、一日二十四時間のうち二十三時間五十五分程は概ね無表情でいる景麒とは違い、表情をころころ変えながら会話を楽しんでいた。 俗にいう立ち聞きで普段の景麒からは想像もつかない行動だったが、当の景麒はそれに気付かない程動揺していた。 しばらく話し込んでいた主と女御達がようやく腰を上げてそれぞれ仕事に戻ろうとした時の事だった。主が低く小さな声で呟いた。 「やっぱり、キスの味が分からないなんて王としてこれでいいのだろうか……」 その呟きを耳にしたのは幸か不幸か景麒だけだった。その為、女御達は王とそのすぐそばで立ち聞きしている麒麟の大いなる勘違いには気づかなかった。
陽子は、これは王として由々しき問題だと考えていた。 そして景麒は、『きす』とは何の事なのだろう、そしてその味とは一体何を意味するのだろう、どうやらそれが分からないと王はとても困るらしい、と推測した。 陽子は更に考えた。ここは王としてやはり実践のみだろうか、やはり桜桃の味なのだろうかそれともレモンなのかと。 景麒も更に考えた。どうやらそれは王としての威信に関わるような大変な事らしい、ならば王を補佐する立場として最も近しい自分も知らなければ困るのではないだろうか、と。 こうして王と麒麟の、普通ならまずあり得ない勘違いと思い込みにより、いつものように事態はとんでもない方向へと向かっていった。
それ以来景麒は例の疑問をどうすべきかどこまでも生真面目に考えていた。胎果ゆえの問題なのかもしれないと思ったが、女御達と話していたところを見るとどうやらあちらとこちら共通の何からしい。 大分陽子の影響を受けてきた景麒は、考えた末陽子に直接尋ねる事にした。
主と向かい合わせで緑茶を口に含みながら、景麒にしては珍しく自分から話を切り出した。 「主上、先日女御と庭園で話されていた件ですが」 「話されていた、って……お前何で知ってるんだ。その場に居たなら声くらいかけろよ」 申し訳ありません、と少しも申し訳なさそうには見えない態度で謝罪し、無表情のまま景麒は続ける。 「主上は大変その事を気にされていたようですので、私もその件について宰輔という立場上知っておくべきだと思ったのです」 陽子は驚いたように下僕を見遣った。 まさか、石頭で柔軟な考えとは月と地球の距離より離れているかと思われる自分の麒麟がそんな事を自ら言ってくるとは…… 「今までお前とは全く意見が合わないし話も噛み合わないし気が合わないしまさに水と油だと思っていたけど、珍しく意見が一致したな」 やや複雑だったが景麒は無言で同意する。 陽子は何やら頷き考え込んでいるようだったが、唐突に顔を上げた。 「よし、じゃあ早速実践してみよう」 「はい」 『キス』とは何を意味するのか分からなかったものの、景麒は頷く。 「やっぱり高いな。景麒、ちょっと屈め」 「はい」 数秒後、景麒は『キス』とは何なのか知った。 微かに熱を持った唇を押さえながら景麒が目を瞬かせていると、陽子はまた何やら考え込む。 「駄目だ」 「な、何が駄目なのですか?」 狼狽する景麒にちらりと目を遣り、陽子は簡潔に答える。 「味が無い。強いて言えばほんのり草っぽい」 「それは先程緑茶を飲んだからでは……」 しかし景麒の言葉など耳に入っていない様子で、陽子はじっと考え込んでいる。 一方『キス』の意味を実地で知った景麒だったが、ようやく味がどうこう言っていた主の言葉の意味も理解出来た。どうやら、接吻の味の話だったらしい。何故、本気で王の威信に関わる話だなどと思ってしまったのだろう。今までの経験からそれ位分かりそうなものだろうに…… その一方で陽子は未だ解き明かされない謎に挑んでいた。 「――もしかして、お前が麒麟だからなのか?」 「は?」 「だから、麒麟だから人とはちょっと違うのかもしれないじゃないか。だとすると、やっぱり他の誰か……そうだ、同じ蓬莱出身の鈴なんかと試せばレモン味かも!」 「それは絶対にありません。お止め下さい」 目を輝かせてそう推理する陽子に、景麒はいつもの無表情に戻り間髪入れずはっきりと断言する。 「そうかなあ……」 「そうです。そのようなはしたない真似はいけません。王として云々以前に、もう少し女性としての慎みをお持ち下さい。全く、とんでもない事です。本当に何を考えておられるのか。軽はずみな言動は控えて下さいと何度申し上げればお聞き頂けるのか。そんなに私を困らせるのがお好きなのですか。少しは王らしく落ち着いて冷静に物事を考えて頂きたい。そろそろ王の何たるかがお分かりになってもいい頃です。そんな訳ないでしょう」 「な、何かお前、小言いう時だけは妙に饒舌になるんだな……そこまできっぱりはっきり完膚なきまでにとことん徹底的にどこまでも否定しなくたって……」 そうむくれる陽子だったが、やはり懲りてはいないらしく尚も推理を続ける。 「やっぱり角度の問題か?いや、それとも何か時間帯が関係しているのかもしれない。もしかすると、蓬莱と常世ではこういった物理法則も色々と違ってくるのかもしれない。と、いう事は……」
延々と続く突拍子もない推理をひとまず大人しく景麒は聞いていたが、やがてそろそろ政務に戻らなければならない時間だという事に気づく。主上、と呼びかけても全く気にせず推理を続ける陽子に、景麒は表情に乏しい顔を心持ち下げて思案する。 「では、こうしましょう」 唐突に切り出した景麒に、陽子は顔を上げる。 「時間帯が問題だとお思いになるのなら、一先ず次に控えている政務を終えてからまた試してみればよろしいでしょう。角度とやらが問題だと仰るのなら――」 言いながら、突拍子もない推理をしつついつの間にか窓辺へ寄っていた陽子の傍に寄り、そっと肩に手をかける。 「――こうしてまた、試せばよろしいでしょう」 唇を離して続けると、陽子以外には分からない程微かに微笑んだ。 陽子はそんな景麒をしばらく眺めていたが、感心したように言った。 「景麒にしては、気が利くな」
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「レモン味?」の景麒編です。 |
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