「ELOPEMENT 前編」


 それはいつもの様に陽子の突拍子も無い思いつきから始まった。

「祥瓊、ちょっと荷物まとめてくれ」
「荷物? またお忍びにでも行くつもりなの?」
 いつもと何ら変わることのない朝、爽やかな空気の中、女王はにっこりと微笑んで答えた。
「駆け落ちするんだ」
 その言葉の深刻さなど微塵も感じさせない表情の陽子に、祥瓊は思わず茶器を落としそうになる。
「か、駆け落ちって……王がそんな事出来るわけ……」
 言いかける祥瓊だったが、すぐに思い直した。
 あの陽子のすることである。普通の人間が考える駆け落ちとは違うのだろう。違うに決まっている。深く考えても無意味なので、祥瓊は女王の命に従うことにした。後のことはもちろん、適任者がどうにかして下さるだろうと思いながら。この状態の陽子への進言は自分には荷が重い。

「一応聞くけれど……誰と駆け落ちするつもりなの?」
「今回は景麒と」
 やはり駆け落ちの意味をよく理解していないらしいようだが、祥瓊は賢明にも口を閉ざした。疲れるだけである。
「よく台輔を説得できたわね」
「ああ、景麒にはまだ言ってない。今からいって荷造りさせてくるよ」
「そう……気をつけてね。でも、でもやっぱり間違ってるわ、陽子……それって駆け落ちですらないわよ……」
 祥瓊の疲れたような呟きは、女王に届くことなく消えていった。


「……今なんと仰いました?」
「今から駆け落ちするから、荷物をまとめろって言ったんだ」
 やはり、聞き間違えではなかったのか……景麒はぎりぎりと痛むこめかみを押さえた。
「あの、最近は官吏の統制も取れておりますし、国も豊か、何の問題も無いように思われるのですが。何か駆け落ちしなければならない様な事がありましたか……?」
「お前はしたくないのか? きっと楽しいぞ」
 景麒は返答に詰まる。陽子の思考回路のどこかで、一般人との基準のずれが起きているらしいことは分かったが、それを上手く指摘するのは困難である。少なくとも、自分では絶対に無理だろうと、景麒は早くも諦めの境地に入っていた。
「恐れながら主上。普通、駆け落ちとは誰かに反対されてからするものでは……?」
「別にいいじゃないか、そんな細かいことは」
 細かくはない。全く細かくはない。普通、駆け落ちとは誰かに反対されたが故にするものなのだ。それが原因なのだ……景麒は眩暈を覚えたが、いつものように耐えた。これしきのことで一々動揺していては、慶の麒麟は勤まらない。

 今までの経験から、普通の感覚の『駆け落ち』ではないことだけは分かっている。
「分かりました。お供いたします」
 結局は陽子の望む通りにやるしかないのだ。最初から大人しく従っておいた方がいいことも、景麒はこれまでの付き合いから分かっていた。

「それで、どうなさるおつもりですか?」
「まずは堯天に下りて、ちょっと首都の様子を見て、それからもうちょっと足を伸ばして周辺の州も視察して、最後に国境沿いをちょっと見てから帰ろう」
 しっかり帰る予定まで立てている陽子に、景麒は安心していいのか、それとも不安を覚えるべきなのか、それすらも分からなかった。

 荷造りを終え、大人しく陽子の後に付き従っていると、途中でばったりと冢宰に出くわした。景麒は慌てるが、陽子は無邪気なものである。
「あ、浩瀚」
 陽子の姿を認め、冢宰は丁寧に一礼した。
「主上に台輔、お二人揃ってどちらへ?」
「ちょっと駆け落ちしてくるんだ」
 景麒はざあっと蒼ざめた。景麒の動揺を知ってか知らずか、浩瀚は全く動じず言葉を返す。
「そうですか。お気をつけて行ってらっしゃいませ。いつ頃お戻りですか?」
「十日位で戻るよ」
「では、その様にはからいます」
「しばらく留守を頼む」
「はい」

 動揺のどの字も見せない冢宰の後ろ姿を見送りながら景麒は思う。事情など知るはずもないのに、あの冷静さはどうだろう。王の素っ頓狂な思考回路と行動をきっちりと把握し、全く動じないとは。

「敵に回さないでおいて良かったですね、主上……」
「何がだ?」
 どこまでも無邪気な陽子に、景麒はそっと溜息を漏らした。

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再UPしました!
ELOPEMENTの意味は「駆け落ち」です。
覚えても使う機会はあまりなさそうです。

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